2015年10月15日木曜日

「太極拳をならうというは,自己をならうなり」(補遺)。李自力老師語録・その62.

 「仏道をならう」ということと,「太極拳をならう」ということとは,ほとんど同義です。つまり,「ならう」ということの内実は同じである,というわけです。

 「仏道をならう」というと,なにか特別のことのようにおもいがちですが,「ならう」ということにおいては芸事を「ならう」ことも,太極拳を「ならう」ことも,みんな同じです。

 その「ならう」ということの内実を,道元さんはもののみごとに短いことばで断言してみせました。もう一度,引いておきましょう。

 仏道をならうというは,自己をならうなり。自己をならうというは,自己を忘るるなり。自己を忘るるというは,万法(まんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるというは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(『正法眼蔵』「現成公按」)

 道元さんのこの凝縮した密度の濃いことばを,少しだけ開きながら,仏道を太極拳に置き換えて,文章化してみると以下のようになろうかとおもいます。

 太極拳をならうということは,自己をならうことです。自己をならうということは,師範について一心不乱に「まねぶ・まねる」(学ぶ)うちに,自己を忘れてしまうことです。自己を忘れてしまうということは,太極拳の奥義(本質・真理)に触れ,魅了されていくことです。太極拳の奥義に触れ,魅了されていくということは,自己の身心を脱落させるのみならず,自己をとりまく環境世界をも開くことになり,自他の境界がなくなること,すなわち,「物我一如」となることです。

 お断りしておきますが,この読解はあくまでもわたしの個人的見解です。もちろん,このような読解をする背景には李自力老師との,かなり踏み込んだ会話があります。その意味では,李老師のお考えに沿ったものであると言っていいとおもいます。

 太極拳をならう(中国語の「習」は「学ぶ」という意味)ということが,やがては「物我一如」に到達するということが,ここでのポイントです。「物我一如」になったとき,李老師が理想とされる「行雲流水」のような太極拳の表演が可能になる,というわけです。

 これを別の言い方をすれば,仏道をならうということも,太極拳をならうということも,自己を超え出る経験である,ということになります。自己超越は,なにも宗教上の経験だけではなく,あらたになにかを「ならう」ときには,大なり小なり経験することです。ですから,太極拳を本気で「ならう」ことになれば,そして,その奥義に触れ,魅了されるようになると,もう,かつて存在した自己はどこかに消え失せています。そして,そこには自他の区別のつかない世界で遊ぶ「自己」が立ち現れることになります。

 この世界のことを,月刊『武道』(10月号,日本武道館発行)に書いてみましたので,参照していただければ幸いです。

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